「(A向け)B教育」に関する一考

「(A向け)B教育」が急に重要であると社会のあちこちで謳われるようになったとします.

はじめに「A向け」について考えてみます.「A向け」というと,普通は for A と考えますが,to be A-ish for allと考える事もできます.例えば子ども向けと言われると,私は大人だから当事者では無いと考えがちですが,not A が失ってしまった何かをA-ishのごとく振る舞ってみることで取り戻したり,Aに関わることで得られる何かが必ずあるのでしょう.Aの語義によっては文化間,地域間,世代間交流を促進する効果も考えられるでしょう,その行く先はA と not Aの境界線がなくなって結果(A向け)とわざわざ謳う必要がなくなるのでしょう.

またA,Bの組み合わせによっては,わざわざ「A向け」と銘打つ必要なく単に「B教育」でよいではないかという意見がでることがあります.これも少し慎重になるとよいと思います.属性に制約を課すことで,創られる環境,そしてその環境下でしか発生し得ないアウトプットというのもあります.例えば女の子向けと銘打ったワークショップでは,なるほど女の子限定だからこのような作品が生まれるのだろうと感心することがあります.語彙によっては,A-ishになりえても,Aにはなることができない場合もあります.to be A-ish for all の考え方をすると,目に見える形でA-ishが創造する世界観を万人が認識できないと,それは結果Bの解釈を個々人がいたづらに狭めてしまう事になります.

一つ目と二つ目に述べている事は矛盾するのではなく,定常状態が存在せず両状態を繰り返し遷移しながら変化していくのです,さらにその状態自体も曖昧で明確な境界線がある訳ではありません.あたかも粒子と量子のような表裏一体の関係なのです.

次に「B」です.Bと聞いて想起するBは,自身がこれまでに蓄積された経験や知識に基づいて定義付けされます.その言葉が急に謳われるようになったということは,一般的解釈が急に変容する可能性があることとです,そういう時期にこそ,自らが考えているBの解釈は常に,自分の経験や知識の範疇を超えないということを意識し,あえて意識的に関連性を模索しながらBを拡大解釈していくことが大切だと考えます.思いもよらなかった事象が,Bと本質的には同じというのはよくある事です.特に商業主義が先行するとBの解釈が恣意的になりますので,以前からBという言葉を使っていたコミュニティーの言質は特に重視するのがよいと思います.

そのような一般認識がなさるような社会が根底に構築されれば,「(A向け)B」が既存の「教育」を幾ばくか良い方向に変えていく触媒になるのだろうと考えます,そうでなければ,進むべきではない固定観念に収斂されてしまう事象が繰り返されて,その結果「教育」という言葉自体に対する信頼がますます損なわれるのでしょう.

「教育」は,だれしも実は身近な問題であり,議論に参加しやすい単語です.
SNSの普及により道聴塗説しやすい環境になっています.情報が増幅されやすい社会であるからこそ言葉の解釈には常に留意していきたいものです.

自戒をこめて.